私は「書くこと」が好きです。
一次創作・二次創作小説の執筆からnote・ブログ記事、SNSのつぶやきなど、とにかく書くことならなんでも好きです。なんならビジネスメールを打っているときや業務のなかで文章を考えなくてはならないときも楽しんでいます。
ただ、自分の文章を世間に発信する瞬間はいつも恐怖を感じていました。
今回はこれまでの執筆活動を振り返るとともに、書くためのハードルを乗り越えた日のことを記録します。
「書く」楽しさと出会う
父が仕事で使うワープロを借り、オリジナル小説を書き始めたのは小学校3年生のとき。
物心ついた頃から好きなゲームのキャラクターのイラストを描いて遊んでいた私は、じゃあ小説も書いてみようかな、と軽い気持ちで執筆を始めました。
子供が考えるファンタジーはとにかく可愛いお姫さま・カッコイイ王子様キャラの嵐で、ご都合設定や超展開ばかり続く拙いものでしたが、毎日楽しく自由に書いていた過去の自分を、今は心から羨ましく思います。
私は小説執筆にのめり込み、中学3年生になる頃には一次創作から二次創作にシフトチェンジしていました。好きで好きで仕方がなくて、見ているだけでテンションがあがるようなキャラクターがいたときは小説を書くことでその気持ちを発散していました。伝えたい萌えを会話にし、好きなシチュエーションを繋げてストーリーにしました。
最初に確かな手応えを感じたのは、2010年10月3日に開催された、采配のゆくえオンリー同人誌即売会イベント『前進せよ!』記念アンソロジーに小説執筆を依頼された時でした。
当時私は自分のホームページで二次創作小説を公開しており、同じキャラクターを好きな少数人のコミュニティの中で細々と小説を書いていました。
執筆依頼のメールが届いた夏の日、私は運悪く扁桃炎を患っており、PCの電源を入れることすらままならない状況でした…。今のようにiPhoneからタップひとつでメール確認、なんてことがまだスタンダードではない時代。結局メールを見たのは執筆可否の返信しめきりを数日過ぎてからで、私はすがる思いで「是非書きたいのですが、まだ間に合いますか?」と返信しました。快諾してくださった運営の方には深く感謝しています。
当然のことですが、原稿提出のしめきりはきちんと守りました。即売会イベントに直接参加はできませんでしたが、良い経験をさせていただきました。相手側から執筆を依頼され、原稿料をもらって文章を書く。それは幼い頃の私が夢見ていたことでした。
ちなみに、采配のゆくえはニンテンドーDSソフトです。推しキャラは藤堂高虎でした!現行ハードでプレイできるようにならないかな~
他人の評価で得た自信
その後pixivが流行りだし、活動拠点は自サイトからそちらに移っていきました。
2011年頃からアトラスの虜となった私は、ペルソナや女神転生シリーズの二次創作小説を書き散らすようになります。萌えは熱いうちに打て、というのは名言です。
pixivには好きな作品をブックマークできる機能がありますが、作品を投稿した側にはその通知が届くようになっています。
初めて一作品のブックマークが100を超え、小説デイリーランキングに載った頃からでしょうか…小説を書くときにきちんとプロットを作り、あまり難しい言葉を使わないようにしていたら、周りから「読みやすい文章ですね」と言ってもらえることが増えました。
実際は私自身が難しい言葉を知らないので、そもそも「頭のいい人が書いたような難しい文章」には成り得ないのですが、正直これには驚きました。
それまで私は「辞書を引きながら読み進めていく、小難しい文章」こそが良い文章、良い小説なのだと思い込んでいました。学生時代、現代文の教科書に載っている文章は大抵そんな読み方をしていたからです。読めない漢字、知らない単語が出てくる度に、ページを捲る手を止め辞書を開く。長い時間をかけて一作を読み終える。そんなふうにして読む文章のほうが得るものが大きく、万人の手本になる良い文章なのだと。
そう思っていたくせに「難しい言葉を使わないようにしていた」のは何故かというと、そうしなければ小説なんてたった一文さえ思い浮かばないからです。悲しいことに。
ただそのおかげで思いがけない評価を得られたので、結果オーライというやつです。このことは私の自信に繋がり、その後も二次創作小説を書いていく上での「強み」となりました。
そうして好きなキャラクターの二次創作小説を書いていくうちに、pixivに投稿した小説が1000ブックマークを超えました。心が踊りました。メインにしたキャラクターがオタク女子達の間で人気だったことが大きな要因だったのでしょうが、それでも桁がひとつ変わった事実は私をやる気にさせました。自分が書いた小説を大勢の人に読んでもらえて、そのうえ「いいね」と思ってもらえたことが、とてもとても嬉しかったのを覚えています。
もっと書きたいと思いました。暇さえあれば好きなキャラクターで妄想していたのでネタはたくさんあります。
けれど、そのうち書くことが苦しくなりました。
もし評価されなかったら?という不安
執筆時や作品投稿後しばらくは常に焦燥感が隣り合わせで、ブックマークが3ケタを超えてからようやく安堵できる…書きたいものはあるのに、前回の作品を上回る評価が欲しいと考えてしまうとなかなか筆が進みませんでした。長編小説をコンスタントに投稿している人を見れば羨み、自分は遅筆なのではないかと悩んだりもしました。
「あなたの書く小説が好きだから、もっと書いて欲しい」と言われたこともあります。ですがそんなときは、有難いと思うと同時に必ずひねくれた考えがセットでやってきました。
そう思うのは単にキャラクターが好きだからでは?
身内だから、フォロワーだから付き合いで読んでくれているのでは?
私が書かなくても、なにも変わらないのでは?
だって私の他にも「書く」人はたくさんいる。私より「上手い」人はいくらでもいるのだから。
時とともにキャラクターへの興味が薄れていくと、もう無理して書かなくてもいいんだ、と肩の荷が降りた気持ちになったものです。しばらく執筆とは無縁の平穏な生活を送って、新しい「推し」と出会ってまた小説を書きたくなり、好きに書き散らしているうちにどこからともなくやってきた義務感に追われて、書くことが苦しくなる。その繰り返しでした。
いつも「うまく書かなきゃ」だとか、下手だから、恥ずかしいから公開したくない、とかくだらないことを思っていました。もっと上手くなってから書こうとか、納得できなきゃ投稿しないとか。そう自分に言い訳して、書く手を止めたことが何度もありました。iPhoneのメモ帳に書きかけの文章がたまっていくのは当然の流れです。書きたいと思っているくせに意識的に隠そうとしていたのだから。
“上手い”と言ってくれる人が多ければ多いほど自信がついて、ネガティブな感情なしに文章を書ける日がくるのではないか…そう信じて小説の技法の本を何冊も購入しました。
結果良い評価をもらうことが増えても、精神的な辛さはいつまで経っても改善しませんでした。誰かに評価されて、一時的に満たされてもまたすぐ次が欲しくなる。まるで薬が切れるように、しかも次は前回の量では足りなくなっている。際限がないのです。
他人の意見を軸にするのは危険な思考。賞賛が欲しくて文章を書き始めた訳ではなかったはずなのに、いつのまにか、一体なんのために書いているのか分からなくなっていました。どうにかしてこの思考から抜け出さなければ。これから先ずっと「書くこと」で苦しむなんて嫌だ…。
書く「勇気」を持つ
そんな私がたまたま出会った「書く習慣」という本に、こんな言葉がありました。
「自分のため」に書いていい。
第一章、いちばん始めの見出しです。
読んだ瞬間、頭のてっぺんからつま先まで衝撃が走りました。とてつもなく「しっくり」きました。忘れていたことをようやく思い出した、そんな気がしました。書くことが好きだから今まで書いてきたのだということを。私はそれをずっと知っていたのに。
なんでも好きに書けばいい。
全然うまくなくてもいい、誰も気にしてないんだから。
書くことが好きなら、自分のために書きなよ。
世間で「良い文章」と評されるものは千差万別。書き出しの一文だったり、期待を裏切る展開だったり、強烈なキャラクターだったり、得られる知識量だったり、心に残る台詞だったり。読む人それぞれの感じ方があり、どの意見も尊重されるべきです。ベストセラーといわれる本だって必ず★1のレビューがついていますよね。
私は多分、他の誰かと比べられることが何よりも嫌でした。周りは決してそんなふうに見ていないのに。顔も名前も分からない誰かを無理やり見つけて、必死になって比べていたのは、私だけでした。
私は私にしか書けないものを書けばいい。教科書に載っている文章、世間から評価されているものだけが正解ではない。
吹っ切るのに時間がかかってしまいましたが、何かをはじめるのに遅すぎるなんてことはありません。ここからまた書き始めればいい。
私は「書く」ことが好きなのだから。
この本にはとんでもなく心を動かされました。目次と第一章の数行を読んだだけで「書きたい」という気持ちが爆発して、今回の記事を書いています。
著者のいしかわゆきさん、この本を世に送り出してくださりありがとうございます。
もし私と同じように「書く勇気がない」「自分の文章を人に見せるのが怖い」という人がいたら、是非この本を一度手に取ってみてください。きっと優しく背中を押してくれるはずです。
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